赤目の赤也なら見たことがあった。それどころか、殴られたこともあった。赤也はそのとき、それが原因でもとに戻ってくれたし、私に怪我させたことをひどく気に病んでくれた。だから私もその所為で赤也を嫌いになることはなかった。告白されたときに躊躇うこともなかった。あの赤也も赤也だし、私は赤目になる彼も含めて彼を好きだと言えた。

 観に来て、と言われた全国大会の決勝戦で、赤也が赤目になったときも驚きはしなかった。少し怖かったけれど、パートナーの柳先輩にひざかっくんされている姿はどこか微笑ましくすら思えた。とてもただのテニスとは思えない試合運びで、見ている私の心臓がどきどきしすぎてどうにかなりそうだったけれど、私はずっと赤也を応援していた。赤也が特別だぞ、と用意してくれた、コートのよく見える位置で、祈るようにぎゅっと両手を組み合わせて、ときどきはからからののどを張り上げて赤也の名前を叫んだ。

 途中までは良かった。なんの問題もない。力と力の拮抗した、素晴らしい試合だったと思う。テニスのことは正直よくわからないけれど、赤也も柳先輩も、相手の青学のチームもすごいことだけはわかった。
 でも、私が直視できたのはそこまでだった。仁王先輩が赤也に対し、彼のもっとも気にしている悪口を言ったとき、赤也はおかしくなってしまった。髪が白くなり、肌が赤くなった。ふつう、いきなり人間の身体がそんな風に変化することなんて考えられないから、もしかしたら私の目の錯覚だったのかもしれない。この試合会場にいる誰もがその変化を認めたのなら、もしかしたら集団催眠のようなものだったのかもしれない。
 容姿に関してはとりあえず置いておこう。問題はその後の赤也の反応だ。彼は空にまでよく響き上がる声で高笑いした。とても愉快そうな声だった。そしてもう、笑うことしかしなかった。狂ってる。誰だってそう思うだろう。赤也が狂ってしまった。少なくとも私はそう思った。

 情けないことだけれど、それ以上赤也を見ることには耐えられなかった。彼女失格、そう誰かに詰られれば黙って受け入れよう。赤也のテニスは人を傷つけるテニスだ。私はそれを知っている。前に誰かを入院させたということも、赤也がそれを相手が未熟な所為だと本気で思っていることも知っている。関東大会の決勝で青学のとても強い人に敗れたあとだって、赤也は結局は自分のテニスを捨てたりしなかった。
 赤也はまっすぐなのだ。自信家で、負けず嫌いで、そして強い。普段はとても明るくて、我儘で、かわいい。それが赤也だった。私の好きになった、赤也だった。
 私は赤也がテニスをしている姿も好きだ。とてもしなやかで美しいと思うし、見ているものを恐怖と驚きで支配する赤也のテニスはダークヒーローみたいに人間を惹きつける。
 だけど。
 いま目の前で戦っている赤也は、ただひたすらに恐怖の対象、それ以外のなにものでもない。奥歯が鳴る。身体が震える。相手の選手が赤也のボールで吹っ飛ばされる度に、もうやめてと叫びたくなる。けれど声を出すだけの力も出ない。
 騒然とする会場から、高く響きあがる赤也の笑い声から、私は逃げ出した。逃げてしまった。


 ベンチに座って喉を潤すと、少し心が落ち着いてきた。
 周りに人はいない。試合の真っ最中なのだから、当然といえば当然だ。
 今頃赤也はまだ、あの姿で戦っているのだろうか。相手の人は大丈夫なのだろうか。ひどい怪我はしていないだろうか。赤也は大丈夫だろうか。いつもの赤也に、ちゃんと戻ってくれるのだろうか。
 戻ったとして、私は彼と、今までと同じようにいられるのだろうか。今までのように傍で笑うことができるだろうか。あの赤也を知ってしまって、それでも私は、恐怖を持たずに彼と接することができるのだろうか。
 恐怖が不安に塗り替えられていく。どちらにせよプラスの感情ではない。
 けれど私は、赤也とこのまま離れていくことを一番恐れている。

! こんなとこにいたのか」
「あっ……あかや」

 気持ちの整理なんて結局何もつかないまま、私は赤也を前にしてしまった。
 赤也はまだ少し汗をかいていて、呼吸も乱れているみたいだった。
 試合が終わってまだ間もないのだろうか。赤也の様子だと当然勝ったのだろう。果たしてどんな勝ち方をしたのか、考えたくなかったし聞きたくなかった。コートの上で悪魔のように笑う赤也の姿を思い出す。思い出し、怖くなって、それでも恐る恐る赤也を見るといつもみたいに笑っていて、私はどうしたらいいのかわからなくなる。

「なあ、お前ちゃんと俺のこと見てくれてたのかよ? 試合終わったらどこにもいないから、急いで探しに来たんだぜ」
「み、見てたよ。その、途中まで……」
「なんだよ、最後まで見てろよ。ま、向こうのデフォ負けだから面白くなかったかもしれねーけど」

 デフォ負け。
 その言葉の意味などよく考えるまでもなくわかる。
 赤也のテニスを思い出せば、相手がなんで棄権したのかなんて一瞬で理解できる。

「っ……だって、赤也が」
「俺が?」

 単純に聞き返してくる赤也は、本当に何もわからないみたいに首を傾げた。みたいに、ではなくわからないのだろう。いつもなら可愛いと思うであろうその表情にも、今はただ背筋がすっと冷える。

「すごく、怖かった。だから逃げたの。赤也のこと、見ていられなくなっちゃったから」

 今も怖い、けれどこれは正直な告白に対しての恐怖だ。なぜ恐れるのか。赤也のことが好きだからだ。嫌われたくない、けれど赤也への恐怖をこのまま隠していても、これまで通りに付き合えるかわからない。それがいま最も強く感じている恐れだった。

 下を向いたまま彼を見ることができないでいる私に、赤也は一歩近づいた。
 怖い。
 思わず一歩分、後ろにさがってしまう。それが赤也の気持ちを逆なでする行為だとわかっていても、身体は勝手に彼と距離を置こうとする。
 また一歩彼が近づく。私はさがる。

!」

 彼は私を捕まえた。
 手首を覆うその手のひらが血にまみれている気がして、びくりとまた恐怖する。
 重症だ。
 私の恐れは直に彼に伝わるだろう。さっきは言葉で、そして今度は行動で。

「……俺のこと、嫌いになったのかよ」
「そんなこと……」
「じゃあ拒むなよ!」

 私の声は震えていた。赤也の声も震えていた。
 拒むなよ、と叫んだ赤也は拒む隙も与えずに私をきつく抱き締めた。さっきまで戦っていた身体はまだ熱く、制汗剤でも消えきらなかった汗の香りが微かに届く。
 赤也の身体はこうして私を包み込み、いつも幸せを与えてくれた。同じ身体で誰かを傷つけていることを、私は知っていた。コートの上の赤也は決して私を見ない。私の存在を意識しない。私の声も想いも、あの瞬間だけはいつも、届いていないのだろう。

「お前に嫌われたら終わりなんだよ!」
「赤也……?」

 たとえばチェンジコートのとき、ベンチでハーフタイムを取っている赤也が不意に視線を上げることはある。その時いつも、確かにその視線は私を捕まえる。余裕のある試合では手を振って笑いかけてくれることすらある。とても幸福な気持ちになる瞬間だった。私の好きな赤也が、赤也の大好きなテニスをしているときに、私に笑いかけてくれるということ。全てが繋がっているような、満たされているような、そんな気分になれる。
 私は本当は、ずっと気にしていたのだ。赤也がもしも、選ばなければならないとしたら。私とテニスと、どちらをとるだろうか?彼にとってより大切なものはどちらなのだろうか?怖かったし、呆れられるのも嫌だったから聞いたことはなかったけれど。

「試合に勝っても、お前に嫌われるんじゃ意味がねえ」

 さっきまで悪魔のように人を傷つけていた彼が、今は弱々しく震えていた。この彼も、そしてあの彼も、全てが赤也なのだ。私は彼の全てが好きなはずだ。
 不安や戸惑いが消えていく。彼がいまここにいて、私を抱き締めてくれている。私に恐怖を与えたのが赤也なら、それを消し去ったのもまた赤也だ。ネガティブな感情は払い落され、彼を好きだという気持ちだけが無垢なままの姿を現す。

「俺は死ぬほどお前が好きだ。赤目になったってデビル化したって、それは変らねえ。それで全部なんだよ」
「うん……」

 赤也はいつだって自分に正直で、まっすぐだ。だから私は彼を信じることができる。どんな姿になったって、彼が私を好きだと言ってくれるなら。自惚れかもしれないけれど、彼を繋ぎ止めておくことができるのが私だけなのだとしたら。

「お前がいなきゃだめなんだよ。だから、嫌いになんてならないでくれよ!」

 声と一緒に震える赤也の身体から力が抜けていく。彼の頬を両手で包み込み親指で目の下をなぞると涙に濡れた。私は赤也に恐怖を感じたが、そのことにこそ彼は恐怖を感じたのかもしれない。
 恐怖には恐怖が返り、愛情には愛情が返る。赤也が私を好きだと言ってくれるように、私もまた赤也のことが好きだった。それがいま、私たちにとっての全てだ。

「嫌いになんてならないよ。私も死ぬほど赤也が好きだから」
「……愛してるって言うんだぜ、そういうの」

 赤也はまだ涙ぐんだままかわいらしく微笑んで、少し掠れた声で私の耳にそう囁いた。愛してる、と答えると、愛してる、と返ってくる。それで全てが満たされていく。

「でもデビル化は本当に怖かったから、できればもうしないでね」
「努力するよ、お前がそう言うならな」

 たとえ何度恐れても、私はきっと彼を好きなままだろう。そして努力をするべきなのはきっと私だ。赤也が自分を見失いそうになったら、大きな声で名前を呼ぼう。私はもう、大好きな彼の前から決して逃げたりはしない。声が届くまで名前を呼ぶから、見上げていつもの笑顔で笑いかけて欲しい。そうしたらきっと、また満たされていくのだろう。
 結局最初から最後まで愛しいという気持ちだけが存在し続けている。
 私の中にも、そしてきっと赤也の中にも。

 手を繋いでコートに戻りながら、言い損ねていたおめでとうを伝える。お前にそう言ってもらえるのが一番嬉しい、俺はそれだけでいい、赤也はとびっきりの笑顔で答えてから、とてもきれいに微笑んで、大好きだ、とやさしくキスするように告げた。





それが全て

08.10.21

title 追憶の苑

silent star様に参加させていただきました。
ありがとうございました。