「皆、ケガや病気に気をつけて過ごすように。解散!」


担任の声が教室中に響いた次の瞬間、一気に椅子を引く音と、弾けたような笑い声があっと言う間に広がった。うちの学校はエスカレーター制で、内部受験なら受験といっても面接や簡易テストのみ。だからなのか、わたしたちは三年生だというのに、ほとんどの生徒がお気楽に過ごしている。これからさっそく遊びに行こうなんて声も聞こえてくるし、海外へ旅行に行くなんて話もちらほら。

窓の外の日差しも強烈。明日から、夏休みだ。


さん、さん!」
「え、あ、芥川くん?」


さあ帰ろうと鞄に手をかけたとき、後ろの席から、あまり聞きなれない声が聞こえた。振り返ってみるとそこには、いつも寝てばかりのクラスメイトが、びっくりするくらいの笑顔でこちらを見ている。授業中も休憩時間も夢の世界にいる芥川くんの、こんな笑顔を見るのは初めてだ。


「うん!おれ芥川!にっしし!」
「わたしに用事?」
「そう!」
「どうしたの?」
「あのささん、がっくん知ってる?向日岳人」
「向日って、向日くん?隣のクラスの?」
「そうそう!知ってる?」
「もちろん知ってるよ。有名人じゃない」
「そっかー、よかったー!」
「え、どうして?」
「へっへー、誰にも言っちゃダメだよ〜」
「何を?」
「がっくん、さんのこと好きなんだよ」


なんとも言えない、聞きなれないフレーズ。何が起こっているのだろう、ただの悪い冗談なのか、はたまた性質の悪い夢か。ただ席が前後なだけであまり話したこともないクラスメイトに突然絡まれて、ただでさえ驚いているというのに。


「・・・」
さーん?だいじょうぶ〜?」
「そんな、まさか」
「あれ、信じてない?」
「そりゃあ・・信じられない・・かな・・」
「どうして?」
「だって、向日くんって、」


向日岳人という名前なら、何度だって聞いている。テニス部員というだけでうちの学校では十分すぎる肩書きだし、中でもレギュラーとなれば女の子たちが黙っているはずもない。部長の跡部くんみたいにファンクラブのようなものはないとしても、有名すぎるくらい有名であることに変わりはない。そうでなくてもくるんと大きくてきりっとした目とか、運動神経抜群なところ、聞いているのはこれくらいだけれど、わたしが知らない彼の魅力はきっと他にもたくさんあるのだろうから。


「おい、ジロー!何やってやがる」
「あー宍戸〜。おはよ〜」
「あ、し、宍戸くん、あの」
「・・チッ。ジロー!てめぇに何吹き込んだ!」
「べつに〜?」


助かった。宍戸くんが走ってきてくれなかったら、わたしの頭はきっとショートしてしまっていた。芥川くんには悪いけど、さっきのは、芥川くんが寝ぼけて発した妄言だということにさせてもらってもいいだろうか。だって、信じろっていう方が無理だ。向日くんが、大して話したこともないようなわたしを好きだなんて。


「ったく。・・大丈夫かよ、
「いや、ええと、うん、大丈夫・・たぶん」
「・・大丈夫じゃねぇな。ジロー、何言ったんだ!」
「し、宍戸くん、大きな声出さないで」
「ぁあ?」
「いや、その・・」
「だってさ〜、変じゃん。好きなのに黙ってるなんて」
「・・・!ジロー、お前、まさか」
「そうだよ〜。がっくんのこと〜」


宍戸くんの顔がみるみる怒りで歪んでいくのを、わたしはなんだかくらくらしてきた自分の頭を抑えながら見ていた。周りがガヤガヤとうるさいのがせめてもの救い・・にもならない。救えやしない。宍戸くんがこんな顔をするなんて、さっきの話が芥川くんの気まぐれだけに留まらないっていう証拠だ。


「ハァ、ばれちまってんなら仕方がねーな」
「え!ちょっと宍戸くん、仕方がないってどういう」
、お前ちょっと来い」
「ど!どこへ?!」
「部室」
「部室って、・・テニス部の?!」
「他にどの部室に行くってんだよ」
「そ、そんなことしたら向日くんに会っちゃうんじゃ」
「だから行くんだろ」
「わーさん、いらっしゃーい。テニス部へようこそ〜」
「よ、ようこそって・・笑い事じゃないよ芥川くん!」


さっき手に取ろうとして忘れていた鞄をあっと言う間に宍戸くんに取られ、わたしは半分引きずられるような形でテニス部の部室へと案内された。その後ろから芥川くんがさっきよりもにこやかに、楽しくてたまらないというような顔でついてくる。かなり距離があると思っていた部室棟にはあっという間に着いてしまい、いてもたってもいられないわたしを尻目に、いきなり宍戸くんがドアを開いた。


「岳人!いるか?」
「ちょっと宍戸くん!」
「なんだ、いねぇのか」
「い、いたらどうするのよ・・!」
「ま、そのうち来るだろ。奥で待ってろよ、
さん、こっちに入って〜」


ここが、テニス部の部室。
初めて来たけれど、なんて豪華な部屋なんだろう。部室にしてはやりすぎなんじゃないかと思うくらいに空調の利いた、快適な部屋。壁際にパソコンがきれいに並んでいて、その向かいには大きなソファ。豹柄のクッションが置かれたそのソファに座るようにと言われたところで、気が引けてしまってそう簡単にはいかない。


「や、あの、ちょっと、ちょっと待って」
「何だよ、今さらグズグズ言ってんじゃねぇよ」
「い、今さらも何もわたし、身に覚えが全くないんだけど・・!」
「ハァ?」
「だって、わたし、向日くんと話したこともないのに・・」


事実だった。そもそも、向日くんがわたしのことを知っているというのが不思議なくらいだった。わたしはとびきり可愛いわけでも目立つわけでもない、いたって普通の中学生。同じクラスの宍戸くんとはよく話すし、席が前後になった芥川くんのこともよく知っているけれど、他のテニス部の人とは全くと言っていいほど接点がない。なのにどうして、何があって、わたしの名前が向日くんの口から出てきたのか。


「話したことがないなら、話してみろよ」
「で、でも」
「岳人は悪い奴じゃないぜ」
「・・・あ、」
「何だよ?」
「思い出した。向日くんって」
「あ?」
「メールとか、よくする人だって聞いた」
「・・あぁ、そういえば、よく来るかもな。メール」


そうだ。メールが好きなんだって、聞いた。色んな人とたくさんメールしてるって。友達が多いのだと聞いたのは、きっとそういう理由もあるのだろう。だとしたら、もしも本当に好きな子なら、とっくにメールくらいしていてもいいはずだ。そんな風に交流を大切にする人が、連絡先すら知らないわたしのことを、好きなわけがない。


「ねえ宍戸くん、やっぱり何かの間違いじゃ・・」
「宍戸、がっくん来たよ〜」
「やっと来たか。早く呼べよ」


言いかけたわたしの声を遮って、芥川くんが部屋に入ってくる。向日くんが、すぐそこにいる。そう思っただけで足がすくんでしまって、わたしはさっきまで座ることもできなかったソファに腰を下ろす羽目になった。なんだか、こめかみの辺りがズキズキする。

まだ飲み込めてもいない、信じられないものが、ぐんぐんこちらに近づいてくる。


「がっくん、こっち〜」
「なんだよジロー、話って・・って、ええ?!!」


芥川くんに背中を押されながら部屋に入ってきた向日くんは、わたしを見るなり文字通り飛び上がって驚いていた。ほら、やっぱりビックリしているじゃない。芥川くんが言っていたことも、わたしがここに来たのも、やっぱり何かの間違いだ。


、さん」
「じゃ、じゃあわたしはこれで・・!」
「ま、待てって!!!」


今なら、今すぐ走ってここから出て行けば、まだ間に合うかも。そう思ったのが間違いで、わたしの腕は向日くんに掴まれてしまって動くことができなくなった。向日くんはとても驚いた目をしているけれど、腕を掴んでいる手にはそんなに力が入っていない。やっぱり口調は男の子っぽいし、焦ってはいるみたいだけれど、乱暴な人ではないみたい。


「あ、えっと、・・・こんにちは、向日くん」
「えっ!オレのこと知ってんのか?」
「知ってるよ」
「そ、そうか!・・ていうか、なんでここにいんの?」
「ええと、それは・・」
「それは?」
「・・あ、あの、呼ばれて」
「呼ばれただぁ?誰に」
「ええと、それはちょっと・・」


この場で芥川くんと宍戸くんの名前を出すのは、なんだか申し訳ない。でも、だからと言ってわたしは自分から喜んでやって来たわけじゃない。もちろん、イヤイヤ連れて来られたとも言うつもりはないけれど。だからわたしの口からは、何も言えない。だってこの状況が、何一つだってわからないのに。

「どうして」と聞きたいのはこっちの方だ。
どうしてわたしを知っているの、どうしてそんなに顔を赤くするの、って。


「・・まぁ、いっか」
「えっ?」
さん」
「あ、・・ええと、で、いいよ」
「じゃ、じゃあ、・・
「はい」
「その、夏休みとか、どっか行ったりすんの?」
「ま、まだ考えてない、けど・・」
「誰かと、どっか行くとかねぇの?」
「いや、残念ながら・・」
「マジで?!」
「マジです!」


向日くんが大きな声を出すから、わたしまでつられて大声になった。向日くんはちょっと不思議なくらいに喜んでいるように見えて、なんだかこっちが照れてしまう。そうしたら急に芥川くんの『がっくん、さんのこと好きなんだよ』という言葉が思い出されて、向日くんの顔を見られなくなってしまう。


「あの、さ」
「は、はい」
「夏祭り、あんじゃん。来週」
「う、うん」
「一緒に行かねぇ?」
「え!」
「オレと」
「・・いい、よ」
「あ!もし迷惑じゃなかっ・・え?」
「いいよ。行きたい、夏祭り」
「マジ、で?」
「マジで」


空調の利きすぎたこの部屋は、夏服でいるには寒すぎる。


「やった・・やったぁぁぁあ!」


気付いたらすっかり冷え切ってしまっていたわたしの手に、向日くんの手が重なる。あ、わたし、男の子の手を握ったのなんて初めてだ。驚いて顔を上げると、わたしの考えていることなんか想像もしないのであろう向日くんの無邪気な笑顔が目の前にあって、慌てて下を向く。


体中が冷たいのに顔だけが熱くて、
居心地が悪いようなそうでもないような、不思議な感覚。
熱が流れ込んでくる手だけがちょうどいい温度になって、指先がすこしだけふるえた。








「じゃあさ、、携帯の番号教えてくんね?」
「う、うん・・でも」
「ん?何だ?」
「向日くん、メールの方がいいんじゃないの?」
「はぁ?何でだよ」
「だって、メールよくしてるって、聞いたから」
「ああ、まあ、アドレスも知っててもいいかもしんねーけど」
「けど?」
「電話の方が早いじゃん。会いたいとか、そういう話ならさ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しあわせなぬくもり

向日はこういうときに考えすぎないで思ってることが言えるくらい
結構男前な子だろうな、というイメージです
中学生だからこそ「ぬくもり=手」というベタな発想が
生きてくるのかなと思うところがあったので下手に捻るのはやめました
仲良し氷帝っ子な感じにしたくてジローと宍戸も登場しちゃいましたが
見てくださる方に少しでもお楽しみいただけたのなら幸いです

すてきな100題マラソンに参加させていただけてしあわせです!
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました

・・・赤咲リカ