さらり、さらり。
髪が梳かれていく感覚を無視して、雑誌を捲っていく。
すると、今度は彼の指がの毛を取って、三つ編みを始める。
髪をいじる機会は女性よりも格段に少ないはずなのに、少年の手は少女の髪をとても器用に編みこんでいく。
家のソファーでの隣に座る少年――幸村精市は、こうして彼女の髪で遊ぶのが好きだった。
彼女が何かに没頭していると、必ずその隣で彼女の髪をいじるのだ。
そして、彼女もまた彼に髪を触られるのが好きだった。
に、幸村精市のどこが好きなのか、と尋ねれば彼女は即答で「手」をあげるだろう。
男の人にしては綺麗なすべすべした甲、長い指、きちんと切りそろえられた爪。
目隠しをした状態で彼の手を当ててみろ、と言われても、必ず正解する自信はある。
彼がの髪にキスをすれば、彼女は幸村の指先にキスを返す。
そのあまりの仲のよさは、立海テニス部レギュラー陣のからかいの的だった。
確かに彼の出場する試合は欠かさず観にいくし、昼休みも時間があれば一緒にお弁当を食べるのだ。
忙しい彼と過ごすためにそうなることは自然だと思う。彼は空いた時間があれば自分に費やしてくれるのだ。
「ねぇ精市、ミーティングに遅れるよー?」
「あと5分は大丈夫だよ。アラームもしてるしね」
笑顔でそう言われると、は何も言えなくなる。幸村と一緒にいられるのは嬉しいし、時間が許されるだけ居たいと思う。
彼が大丈夫と言うのなら大丈夫なのだろう。幸村は時間の使い方がとても上手い。
テニス部には珍しく、午後からミーティングだけという土曜の朝、幸村は家にやってきた。
の母親は幸村のことをすっかり気に入っており、彼を招き入れると自分は買い物に行ってしまったのだ。
年頃の娘を持つ母親の行動とは思えないが、自分にもしっかりと遺伝されている彼女の適当さは役に立つこともある。
今みたいに、彼と一緒にいられる時とか。
は髪をいじる幸村の手にそっと触れ、小さな子供がするように彼の指を握った。
一度だけ、彼から逃げたことがある。
去年の冬。
雪がチラつきそうな寒い日で、室内だというのに、妙に厚着をして母親に呆れられたのを覚えている。
その頃は、まだ付き合い始めて間もない頃で、練習試合帰りに家に寄る彼の為に、張り切って手作りのケーキを作っていた。
約束の時間になっても現れない。
試合が長引いているのかと思ったが、時間に正確な少年は1分でも遅刻しそうになると必ず連絡をくれた。
もしかして事故にあったのかもしれない。不吉な想像が頭をよぎる。
おそろいのストラップをつけた携帯を握り締めて待っていたは、耐え切れなくなってとうとう幸村の携帯を鳴らすことにした。
数コールの後、繋がった電話にはホッと息を吐く。
だが受話器から聞こえてくる声は、彼女が大好きな、やわらかく耳をくすぐるアルトではなく、もっと低い声だった。
精市が倒れた。
電話に出た少年、柳蓮二の言葉にの頭を真っ白になった。後ろから聞こえるノイズが妙にリアルだ。
キッチンのオーブンがケーキの焼き上がりを告げる音で、はようやく我に返った。
無我夢中で搬送された病院を訊き、コートも着ずに財布と携帯だけを持って電車に飛び乗った。
もしかしたら、軽い貧血か何かかもしれない。
もしかしたら、テニス部の皆で自分を驚かそうとしているのかもしれない。
淡い希望が少女の胸を駆け巡る。
結局、が病院に到着したのは、幸村が手術室に消えてしばらくした頃だった。
病院までの道のりで抱いていた希望は、病室の前に並ぶ選手たちの沈んだ表情を見て払拭された。柳生が詳しい病状を説明してくれる。
ボンヤリとした頭で理解できたのは、彼が今まで通りに生活できるか分からないこと。そして、いつ治るかも分からないということだった。
その日は幸村の家族が駆けつけたので、達は遠慮して帰宅することにした。
帰り道、ジャッカルや柳生が気を使って話しかけてくれたが、内容は殆ど覚えていない。の脳は、パンク寸前だった。
それでも、彼なら大丈夫なんじゃないか、という根拠の無い希望の灯火は彼女の中で燃え続けていた。
次の日、学校帰りに見舞いに訪れた病室で彼は、いつものように微笑んでを迎えてくれた。その姿に、ホッと胸を撫で下ろす。
退屈だろうと持ってきた文庫を渡したが、彼の手はそれをしっかりと掴むことが出来ず、音を立てて床に落ちた。
――― 手足がまず動かなくなり、徐々に身体の自由が奪われます。
もう一度説明してくれた柳生の言葉が脳裏に蘇る。は取り繕ったような笑顔で本を拾い上げ、サイドテーブルに置いた。
日を追うごとに、彼の病状は進行していき、そのたびには自分の胸が痛んでいくのを感じた。
彼を安心させるように、自分も安心できるように、少しでも変化を感じられるように、毎日幸村の手を摩った。
そして、幸村もそれに答えるように、の髪を撫でる。入院する前から、彼はこの行為が好きだった。
1日ごとに歩くことが困難になり、箸が使えなくなり、フォークすら握れなくなる少年を見るたび、こみ上げそうな涙を必死に押しとどめた。
重たくてどうしようもない気持ちを背負っていても、絶対に幸村の前では泣かないとは心に決めていたのだ。
だが、その決意はすぐに打ち破られた。
いつものように学校帰りに病室に寄り、日に日に震えが酷くなっていく彼の手を摩る。なかなか食事を食べられないせいか、少年は随分と痩せてしまっている。
その日、彼はいつものようにの髪に手を伸ばした。
しかし、震える指先は、少女の髪をろくに攫めないまま、その間をすり抜けていく。
パタリ、と音を立ててベッドに落ちた手に、は言葉を失った。
ごめん。
苦い笑みを浮かべながら吐き出されたその一言が、今までが押しとどめていた何かを壊した。
ポロリと涙が零れ、それは止まることを知らないように少女の瞳から落ちていく。
涙を拭ってやることすら出来ない幸村は目を伏せ、のすすり泣きをじっと聞いていた。
泣き止もうと思えば思うほど、涙が止まらなくなる。泣き声だけはあげたくなくて、は唇をかみ締めた。
動けなかった、お互いに。
身体的に動けない幸村と、彼の前から立ち去るタイミングがつかめない。
静かな空間に、まるで空気を読んだように、病室ドアをノックする音が響いた。
現れたのは、何だかんだいって毎日のように交代で見舞いに来ていた少年達だった。
室内の空気に赤也だけでなく、あの柳までもがぎょっとした表情を浮かべた。
チャンス、と言わんばかりには鞄を掴んで病室から抜けたした、幸村には何も言わずに。否、言えなかった。
後ろから赤也が呼び止める声が響いたが、振り返ることなく走った。
そしては逃げ出した、幸村精市から。
次の日から、当然のように彼女の足は病院から遠ざかった。
毎日惜しげもなく通った病室に近寄ることもなく、学校からストレートに帰宅する日々が続いた。
自分の涙は、間違いなく幸村を傷つけた。だから、どんな顔で彼に会えばいいか分からないのだ。
日に日に弱っていく彼を見守る辛い日々から解放されたはずなのに、気持ちが晴れることはない。
時折、テニス部のレギュラー陣が様子を見るように教室を訪れたが、から幸村の様子を訊くことはなかった。
別れるかもしれない。
ポツリと、赤也に洩らした日の放課後、いつもより厳めしい顔をして現れた真田はを部室へ引っ張っていった。
そこにはレギュラー陣も勢ぞろいしていたが、幸村の姿は見えない。分かってはいたが、は僅かに肩を落とした。
激しい言い合いの後、真田はの頬を張り、「お前がしっかりしないでどうする!」と、あの耳を塞ぎたくなるような大声で怒鳴られた。
叩かれた張本人も、周囲で見ていたレギュラー陣も、「女の顔を殴るなんて何て男だ」と思ったに違いない。
真田は、呆然と自分を見上げるを病院に引っ張っていき、彼が眠っているのを確認して彼女を病室に招き入れた。
躊躇しながら入った病室で、は目を剥いた。
久しぶりに見た少年は前に見たときよりも痩せていて、呼吸器をつけて眠っていたのだ。
真田の話によると、今がピークだそうで、自分で食事も取れないそうだ。
はゆっくりと幸村の傍に近づき、両手で彼の手を包み込む。
真田が病室から出て行く気配を感じながら、は幸村の手を摩った。
冬の夕暮れは早くて、まだ4時だというのに橙に染まる部屋の中で、は彼の手を摩り続けた。
この手がまたテニスを出来るように、髪を梳けるようにと願いをこめながら。
しばらくして、幸村は双眸を開けた。朧気に視線を漂わせ、手の感触に気づいたらしく、こちらに顔を向けた。
彼の視線がゆっくりとを射抜き、少年は優しげに目を細めた。
僅かに、本当に僅かに彼の指が動き、唇がの名を紡いだ。
涙でぼやける視界を必死に押しとどめ、は笑みを返した。
泣くのは、彼が完治してからだ。
次の日からは再び病院に通い始めた。眠る幸村の手を摩る、毎日、毎日。
ピークが過ぎ、彼は少しずつだが回復して、再びテニスが出来るようになった。
半年は永く、苦しい時も多々あったが、は彼の隣にいることを望んだ。
だから幸村が病気を克服した時、「がいてくれたからだよ」と言われた時は大泣きした。
恥もなにもかも掻き捨てて、こみ上げる嬉しさに押され、ただ慟哭した。
元通りの逞しい腕が差し出され、は迷うことなくそれに縋りついた。
そして、幸村はが泣き止むまで、包み込むように抱きしめ続けた。
突然指を掴まれたとなり、さすがの幸村も驚いたらしい。少年は大きな瞳を僅かに見開いた。
だが、すぐにいつもの笑みを浮かべ、「どうしたの?」と優しく尋ねる。
は「なんでもない」と子供のように首を振り、雑誌を放り出して幸村にもたれかかった。
クスクス、と上から降ってくる笑い声に、は視線を上げた。
「なに?」
「って、時々すごく甘えん坊だなって思って」
否定はしない、とは心の中で呟いた。幸村といると安心する。
時々その腹黒さに驚かされることもあるが、傍にいたいと強く思う。
幸村は片手をの腰に回し、もう片手で彼女の髪を弄った。
「ねぇ、何考えてたの?」
「ひみつ」
悪戯っぽくそう答えると、幸村はの腰をくすぐりだし、耐え切れなかったはすぐに吐いた。
「真田くんがいなかったら、あたし達今頃どうしてたのかなって思っただけ」
あの当時はとんでもない男だと思ったが、今では感謝している。彼がいなければ、今の自分達はいないのだから。
あのまま別れていたら、きっと今も後悔し、壊れていただろう。
もし、遠い未来で自分達が結婚するようなことがあれば、彼は恋のキューピッドという不似合いな称号を手に入れるのか。
想像して笑うとは逆に、幸村は面白くなさそうな貌をしている。
「どうしたの?」
「別に」
「あ。ヤキモチ?ヤキモチでしょ?へぇー、精市でもヤキモチ焼くんだ?」
からかうように言うと、幸村はの腰を抱き寄せて、唇を重ねた。
瞳を閉じて、指を絡ませ、は彼にそっと身を委ねる。
刹那、テーブルに置かれたケータイのアラームが鳴り、彼の唇は名残惜しそうに離れていった。
目を開けると、彼は少しだけ困ったような顔で笑っている。
「行かなきゃ、ね」
「うん、行ってくるよ」
互いに微笑むと、「もう一度だけ」と唇を寄せ、幸村はの髪を梳った。
世界一愛おしい、その手で。
髪を梳る指先