silent star
057:紺色の中に浮かぶ月と
空が色を染め変える午後。
急においしい紅茶が飲みたくなって、ふらりと一人、海の見えるカフェへと向った。
地元から6つ目の駅の町にあるそのカフェは学生時代の頃と何ら変わりがなく、相変わらず甘い匂いが室内に満ちている。
海の見える席に腰掛け、注文を終えた私は「懐かしいなぁ」なんて思いながら、ちら、と昔私たちの特等席であった場所に視線を送る。
そこは一番海が綺麗に見える窓側の席。今現在は制服を着た男女が向かい合って座っていて、
数年前の私たちを見ているようで微笑ましく思えてしまったと同時に、なんだかちょっぴり恥ずかしいような、そんなむず痒い気持ちになった。
そんな二人から窓の外へ視線を移すと、
綺麗な赤や橙色を真似た海が良質の紅茶のように煌めいていて、
それは簡単に私を現実から引きはがしたのだった。
*****
Rrrrr......
Rrrrr......
ふと意識を現実に戻した途端、私が手にしたのは携帯電話。
こういう静かなカフェで電話をかけるのってなんだか気が引けてしまうのだけれど、店員以外には誰も居ないし別に良いよね、
なんて、勝手に自己解決をしてリダイヤルのボタンを押す。
肌に当たって見えないディスプレイには大好きな人の名前。
さっきの学生を見てしまったせいか、彼と一緒に見たくなってしまったのだ。この綺麗な景色を。
数回の呼び出し音の後に彼の「もしもし」という低めの声。
「すっごい綺麗!早く来て!」
彼が何の用なのかと尋ねる前に私が言葉で遮ってしまったせいで、電話越しには深い深い溜息。
きっと眉間を手で押さえてるのね、なんてクスクスと笑ったら、やはりと言うべきか彼は機嫌を悪くしたようだった。
『お前、どうやら俺様に来て欲しくないようだな。アーン?』
「そんなことないよ、ごめんって!でも、本当に綺麗なんだから!」
『そもそも主語が解らねぇ。』
「海が綺麗なんですよ。ほら、学生時代に来てたカフェ。そこに居るの。」
『あぁ、あそこか。まぁ、悪くはない、な。』
「それで夕焼けがとっても綺麗なの。早く来てくださいね、景吾坊ちゃん。」
『坊ちゃんじゃねぇ!』
冗談交じりに言った返答がコレ。
乱暴に切られてしまった電話を見つめながら、今度は私が溜息をついた。
とりあえず何か追加注文をして時間をつぶしておこうかしら。
手元のカップがからなことにも気がついて、私は少し遠くのカウンターで食器を磨いているオーナーにケーキを二つと紅茶を一杯注文した。
客が居ないためにすぐに私のもとへやってきたケーキ。私はそれを頬張りながら天井から吊された握り拳ほどの裸電球を眺める。
オレンジ色の柔らかい光を放つそれが紅茶の水面に映って、カップの中が私の大好きな夕焼け空になっていた。
“なんて綺麗なのかしら。”
手の中のカップを見て、思わず感嘆の溜息。
ついつい紅茶が冷たくなってしまうくらい見つめてしまったころ、ちょうど景吾が店の扉を開けた。
カランコロンと来客を知らせる音はやっぱり心地良いもので、私は本当にこのお店が大好きななんだと実感させられた。
革靴の音が私のテーブルで止まり、目の前からドッカと踏ん反りかえり座る音。
カップから目線を上に上げると、愛してやまない景吾の顔。難点と言えば不機嫌さを醸し出す眉間の皺だろうか。
いや、私はそれも好きだから難点とは言えないのだろうか。
「ほら、綺麗でしょ?」
「あぁ。」
海を眺める景吾の顔がふわりと柔らかくなる。しかし、
それは本当に一瞬のことで、まばたきのあとには元のしかめっ面に戻ってしまっていた。
「坊ちゃん。」
「アーン?」
ものすごく不機嫌な声。
「って呼んだこと怒ってるの?」
「今も怒っただろうが。」
さらに不機嫌になる景吾。まぁ、解らなくもない。私もそんなことをされたら怒るに決まっている。
いや、それにしても・・・・そんなに『坊ちゃん』と呼ばれるのが嫌なのだろうかと、つい先日跡部グループの社長となった男を見た。
確かにもう社長さんだものね、嫌かも。かと言って、社長がそんなふうに感情をむき出しにしても良いのだろうか。
景吾の顔を穴が開くほど見つめながら考え込む私。そんな私を見て、目の前の彼、景吾が一瞬目を見開いたあとに口の端を少しあげた。
「私が悪かったです。ごめんなさい!」
それを見てしまった直後、私はテーブルに頭をこすりつける勢いで謝罪を述べる。
その後には景吾の小さな舌打ち。
あの顔は絶対に何かひらめいた顔だった。きっと私が謝らないからと言って、とんでもないことを言い出そうとしていたに違いない。
「わかれば良い。」
そう発した本人は、言葉とは正反対の顔をしている。残念そうな悔しそうなそんな表情。
危ない危ない、一息つくために目を向けた窓の外はあと少しで夕日が沈んでしまうところで、私は小さく声を漏らした。
その声につられてか、景吾も姿を隠そうとする夕日に視線を向け、同じように感嘆する。
徐々に徐々にと少し早めのスピードで沈んでゆく燃えさかる星。その光景が学生時代に何度か見たそれと重なって、
私は今どこにいつの時代にいるのだろうかと、そんな錯覚に陥ってしまう。それと同時に渦巻く不安が押し寄せる。
「おい、跡部。」
そんな私に気がついたのか、景吾が私を呼ぶ。
嬉しいはずのその呼ばれ方にビクリと少し跳ね上がる私の身体。
「まだ・・・です。」
「あと数時間でお前は跡部だ。」
「でも、まだなんです。」
膝の上で拳を握る私返ってきたのは、漏れる景吾の溜息。
そして悲しそうな絶望を含んだ表情。
「今さらイヤと言うのか。」
「ただ、不安なの。私はお金持ちの娘でもないし、特別有名なわけでもない。」
そんな私が・・・。
なんてバカなことを言っているのだと思いながら私の言葉は止まらない。
止めたくても止まってくれない自分の口に泣きたくなる。
景吾をわざわざ不安にさせる必要もないのに。
嫌われたくないのに。
幸せになりたいのに。
「。お前はバカだな。」
何にも言い返せない。
「バカだ。」
「・・・・・・・・知ってる。」
「いや、知らない。」
「だって、」
「この俺様が、跡部景吾様が選んだ嫁だ。それだけで世界一のレディなんだよ。」
だから自信を持て。そう言って席を立ち、微笑んで私に手をさしのべる跡部景吾。
どうして不安になる必要があったのだろう。彼が私を選んでくれたのに。
景吾の自信が私に流れ込んできたかのように不安が吹っ飛んでしまった気分で、
今の私の中にあるのは喜びと感謝と明日の結婚式への期待だけ。
そんな私たちの姿を、満天の星空と濃紺の海に映り込む揺らめく夜空、そして小さな夕日が見守っていた。