幼馴染って言葉は案外便利だと思う。片思いの要素が追加されたとしても両思いではないのだから、恋に臨むことはできるのに進展なしでは恋人になれない。例えばそこに中学三年生まで同じクラスという偶然、あるいは必然かもしれない奇跡に似た男女がいたところで、そういう関係は結局一緒くたになって幼馴染の一言で済ましてしまうのだから、今の俺との関係はそれで適切すぎる表現なんだろう。

「・・・それで、跡部は何が言いたいんだよ」

 部内にあるテーブルに頬杖をつきながら不満そうな顔の宍戸からは今にも溜息が零れるかと思うぐらい投げやりの態度だった。正直言って淡白、というよりは本当に興味がない様子を全開に晒している。今ながらに思えば、宍戸は本当に色恋沙汰の噂を聞かない。だからこそ俺が相談相手を彼と選んだのが一つの理由。たぶん、人選は完璧な正解ではないにしろ間違えではなかっただろうと後ほど思う。

「恋愛相談なら忍足にすりゃ、いいじゃねーか。アイツ、小説でラブロマンスとか好きだろ」
「それが出来たら、初めからそうしてる。そもそも誰が忍足に恋愛相談なんか好んでするか」
「・・・まあ、俺だったらしないけどよ」

 数秒間悩む素振りを見せた後、微かに表情を歪めて返ってくる予想通りな宍戸の反応に「それより、」と言い返して話を一区切りつける。抑の話、宍戸とが三年C組で同じクラスだから(ジローもC組だが寝てばっかりでアテになんねぇだろ)相談相手は忍足よりも宍戸の方がはるかに適任だった。そして筋道を元に正せば原因、というか根本は幼馴染である彼女の話。
 忍足に何気なく「前から思ってたんやけど、C組のさんって跡部の幼馴染やったっけ?」と着替え中の雑談で聞かれたとき、そういえば彼女との関係はそれだけだと思い知らされた気がして、あれ以降からのことを自分はどう思っているのかわからなかった。恋愛として好きなのか、家族として好きなのか。どちらにしてものことはずっと大切に思ってきたし、これからも大事な彼女には変わりない。

「跡部はが嫌いなのか?」
「嫌いじゃない。・・・むしろ、」

 宍戸から右下に視線を外して零れかけた語尾を曖々昧に濁した。先は独尊心とか羞恥とか、そういうものが込み上げてきて断言はできなかったけれど続きは無言でも十分宍戸に通じただろう。案の定、ハッキリとしない俺への返答は大きな溜息一つだった。隠すこともなく堂々とするあたり、宍戸らしい返し方だと。そこまで考えたときに、空気がガラリと冷たく研ぎ澄まされたものに一変していた。
 彼の眼差しが余りにも真摯で鋭かったから予想外に俺の動きが止まる。

「くわしいことはわかんねーけど、跡部がそう思ってんなら」
「・・・・・」
「実行しろ」

 好きなら好き、嫌いなら嫌い、白黒はっきり明暗を隔てるのがいつもの跡部らしいと宍戸は告げる。この場面で、なかなか簡単に言ってくれるじゃねぇか、とはさすがに返せなかった。たった数十秒とも数分とも思える時間、何も発せない。物音一つなくて、静まり返った部室がやけに重く感じた。閑寂が嫌じゃないと思ったことは何度もあったが、これほど黙然としていることが痛いと思うのはこれが初めてだ。

 長く感じた沈黙の口火を切ったのは宍戸だった。ふ、と笑う声がしたと再び宍戸の表情を見れば剣幕も真剣もどこにもなくて、ただいつも通りの笑みを見せる。彼の態度に緊張感を持った空気も緩んで、雰囲気にいつの間にか強張っていた肩もすとん楽になった。

のこと、好きなんだろ?跡部がを守ってやれ」
「―――――っ、」

 全身が強く打たれたようにビリビリした。今まで何が怖かったと問われれば間違いなく俺は怖いものなどないと答えただろう。でも今は違う。本当はかぎりないほどから離れるのが怖かった。彼女のいない人生を考えるのが怖かった。だから彼女を傷つけたくなかったし、彼女の悲しい顔もみたくなかった。それはきっと家族愛のようなものだと思い込みたかった。そう思えば彼女は俺から離れることなどなくなるのだから、彼女が俺を兄のようだと思うように俺もまた彼女を妹だと思い込めればいいと考えていた。だけど、

 気づいたときには好きだった。

 が誰かに微笑みかけるだけで不快だと苛々する。彼女が俺に笑いかけるとどうしようもない衝動が体中を走る。必死にばれないように抑え込んできたけれど、彼女といればいるほどその思いは日々強くなっていつかタガが外れそうで怖かった。彼女を泣かせることはしたくなかったし、それで関係が壊れたらあまりにもつらすぎて耐えられそうにない。
 今更ながらに恋愛がどういうことか思い知らされたのはその頃からで、だから敢えて、傷つける前に俺から離れる選択をした。そのほうがずっと正しいと常に自分へ言い聞かせていた。気づかないふりを続ければ幸せになると信じていたから、全ての恋心を意図的に無視した。
 それなのに、俺が望んでいたことは全く逆のもので、

 本当は、気づくのが怖かっただけ。(離れたくないほど、好きすぎて

 そこで俺はやっと納得した。彼女を好きだと認めるのが遅すぎたけれど、漸く自覚さえしてしまえばもう逃げたいとは思わなかった。始めから戦う前に逃げていたら勝てるものも勝てないし、この場面だけじゃなくテニスにおいても恋愛においても言えることだった。
 そんなの宍戸の言うとおり―――――俺らしく、ない。

「跡部は難しく考えすぎなんだよ。もっと、」
「肩の力を抜け、・・・だろ?」

 宍戸の続く言葉を含みのあるお得意の技で先に言うと一度は目を大きくさせて、ふとした瞬間呆れたような、やれやれと言わんばかりの吐息とともに両手をひらり流す。宍戸は一度空気を茶化すように年齢相当の笑みを見せてから、自分のラケットを握って「よし!」と気合を入れて立ち上がった。立ったまま数秒ガットの調節をして、唐突にくるりと首だけこちらに捻りながら部室のドアノブへ手を伸ばす。

「・・・跡部様のインサイトも復活したようだし。俺はもう部活行くぜ?」
「ああ、手間取らせて悪かったな」

 がちゃりとノブの捻る音が聞こえてコートで打ち合うボールの音や氷帝コールの声出しなど部内に小さく響く。どうせ部活で会うからまたなともじゃあなともお互いが声をかけることなく、宍戸は太陽の下で軽い伸びを、俺は半端だった着替えを再開し始める。

「別に何かあったらお互い様だろ。それに、部活に支障は出てないから気にすることもねーだろ」

 会話のやりとりが宍戸らしくて何だか妙に笑えて喉でくっくっと笑いを零すと何笑ってんだよ、とドアを開けっ放しにして視線だけを送られた。そのまま何も言わずに笑い続けながら着替えを終えてラケットの準備を始めると宍戸は聞くことを諦めたのか溜息一つ吐いて「ま、いーけど」と浮かないながらも思考を止めた。

「跡部、せいぜい頑張れよ」

 恬淡とした抑揚のない応援だったけど、気分は悪くなかった。

□■□

「今日は車とちゃうん?」
「ま、久々に歩きも悪くねぇだろ」
「ふーん」

 忍足はまだ納得していないような声色だったが、それ以上問い詰めるわけでもなく向日と晩飯の話やらじきに行われる学園祭の話に加わっていた。(「今日の夕飯、納豆ご飯とから揚げだったら良いのになー」「あかんで、岳人。から揚げはええけど納豆は許さへん」「えー!あのネバネバ具合がいいじゃんよ」「学園祭のときも言うたけど、納豆はあのネバネバが逆にな」「あ!そういえば今年の学園祭どうなるんだろーな!」「またどうせ無駄に榊監督やら跡部が金かけるんやろ」)

「あー、ちょっと待て跡部。帰りは一人か?」

 突然声をかけられ振り向いたら一足先に着替えを終えた宍戸だった。部活が始まる前に彼女の相談をしたから、多分彼は俺が一人で帰る理由をきちんと把握できていると思う。宍戸の問いかけに「ああ」と短く返事をすると、少しだけ考える素振りを見せて「あー」だの「んー」だの唸り、でも結局すぐに悩む素振りを止めたかと思えば口を開く。

「校門で、ちょっと待ってろよ」

 何故とも何でとも聞かなかった。用事があるならここで言えばいいし、それが言えないから校門で待ち合わせるのだろう。そこまで考えて思いついた言葉通り「なるべく早めに来い」とだけ簡素に伝える。すると「わかってる」とこれまたさらりと言ってのけた。やっぱり先刻相談した彼女の話が関連しているだろうことは直感というか流れで予感はしていた。宍戸もまた然り、それ以上の会話はしなかった。
 校門で突っ立っていると女子生徒が先輩同級生後輩関係なくちらちらを横目に見ては、樺地がいないのが珍しいのか小さな声で俺の噂をしているのがわかったが、特にいつものことなので気にならなかった。視線を受け流すことは簡単にできたし、背景の夕日がそういう気分にさせているのかはわからなかったが、やけに落ち着いた心境で焦る気持ちが一切なかった。だから待つことにも抵抗はなかったし、ぼやけた夕方の景色を何も考えずに見るのも悪くない。

 そう冷静なはずだったのに、たんたんたんっと人の走ってくる音が聞こえた。嫌なような、嬉しいような、複雑な予感とともに宍戸の言葉がよみがえる。校門で待てとはそういう意味だと、なぜ俺は深く考えなかったと、後悔先にたたずを身を持って実感するとは思わなかった。
 全部が全部後悔しているわけじゃない。ただ、気持ちの整頓が上手にできないだけで戸惑ったのは事実だった。会いたいけど、会いたくない。そんな中途半端な思いから、苦虫を噛み潰したような顔をしていたと思う。それもすぐ一瞬で、そそくさと動揺を奥へ押し込んだ。

 以前から聞きなれている澄んだ声色で「景吾くん」と呼ばれる。
 ほんのたった、―――――たったそれだけのことなのに、どくんっ、と鼓動が大きくはねた。

 いや、たったそれだけのことなんかじゃなかった。
 掠めるように耳にと届いた声は泣きたくなるほど待ち遠しい温かさを持つ。俺の名前を独特の呼び方で呼んだ彼女は、そう。
 鮮やかで眩しすぎるぐらい。優しげに笑いかけて、(ただ愛しくて、切なすぎる

・・・?」

 振り向いたら案の定彼女で、それを理解した途端にどう接すればいいかわからなくなった。あまり公で優しく接しすぎてもファンクラブから咎めの対象になってしまいそうで怖かった。だからと言って、今の俺はを突き放すことはできない。そんな葛藤で話しかけられた俺は、彼女の名前を一度呼ぶだけで何も話せなかった。
 唇が上手く開かないのか、それとも出てくる言葉が何もないのか、喉元まで込み上げるモノに違和感を抱いた。何を言っても何をしても彼女を壊しそうで怖いほど、彼女はとても儚げに見えてそれが余計に欲しかった。触れたいのに触れられない距離がひどく曖昧でもどかしい。
 彼女も呼びかけたはいいが、何か言いづらそうに俯いて唇を強く結ぶ。強がって、泣くことを無理やり我慢しているような―――だけど揺ぎ無いものを確信している、そんな彼女につきんと痛んだ心に嘘はつけない。気を抜けば思わず抱き締めてしまいそうな、甘い何かが心の中で走った。

 嗚呼、―――――苦しいほど、誰よりも 恋 し く て。

「景吾くん」

 彼女は再び俺の名前を呼んで、少しの沈黙。それもつかの間、彼女がゆっくり顔を上げると意思を持った真っ直ぐに向ける目線に戸惑った。覚悟を決めたように迷いがない、でも緊張して声が震えそうになって、それを必死に抑えている。頑張る姿だって泣く姿だって幼い頃から散々見てきたくせに、こんな寂寞とした表情を見せる彼女を見たのはどれぐらいぶりなのだろう。肩に力の入ったまま、彼女は口を開く。

「あの、今日歩いて帰るって宍戸くんから聞いたんだけど」

 渚が放った声は予想以上に震えていた。今すぐ泣き出してもおかしくないぐらいなのに、凛と立つ彼女が綺麗あまりにも綺麗で。
 怖いと思ったのは俺だけじゃなかった。逃げたいと思ったのはも同じだった。だけど、はきちんとそれに立ち向かってくれたからこうして俺に話しかけてくれたんだと、今ようやく俺は納得がいった。俺はいつもの俺らしくなる覚悟が必要だった。それだけだった。たった、本当にそれだけのことをしてあげれば、彼女はふわりとまた優しい笑顔を俺に見せるのだろう。

「一緒に帰ってもいいかな?」

 不安げに瞳を揺らす彼女に思いっきり安堵の溜息をすると誤解したのかびくりと肩を一度はねらせた。だから困惑する彼女にちらりと目を配らせてから騒ぐ鼓動を落ち着かせるよう瞳を閉じて、そして少しだけ緊張から体温の上がった手での手を握る。すると目を大きく見開いて驚きはしたものの、返事と言わんばかりに、全てを委ねるよう優しく笑い返した彼女はきゅっと緩く俺の手を握り返す。
 俺は少しだけ上擦った声色を誤魔化しながら、ふっと笑みを零し、惜しみない愛情を込めて彼女を呼んだ。

「・・・―――――、一緒に帰ろう」

 帰り道の赤く色づく夕日が、いつも以上に赤くて眩しかった。

025.吐息の行方
次の日、宍戸はおろか鳳や日吉、挙句の果てジローにおめでとうと祝福されるのはそう遠くない話





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