暑さが際立ち始める日。わたしにとっての、夏の始まり。 この日には必ず、食卓の上の一輪挿しに、特別なバラを生ける。 記
念
日
に
は あれは、高校生になってからのこと。 精市は相変わらず部活熱心で、わたし達が二人で出かけるのは週末くらいのものだった。 とは言え、中学生の頃みたいに寂しい思いをすることはなくなっていた。 一度病気をしたせいか、精市は自己管理を徹底し、きちんと休みをとるようになったからだ。 あの真田でさえ、試合の後にはあからさまに精市を気づかったけれど、 精市の練習量は中学時代の比ではない位にまで減っていた。 だから、平日の放課後に一緒にいられないことくらい、わたしには何の苦でもなかった。 そんな頃、わたしの趣味は、素敵なカフェを探すことになりつつあった。 精市のいない平日の放課後、一人でも友達とでもいいから色んな場所へと出かけ、 そこで見つけたカフェになんとなく入ってみる。 ざっとメニューを眺めて、もしくはお店の人に尋ねて、おすすめの紅茶とケーキを頼む。 もし、その紅茶がとても優しい香りのハーブティーだったりしたなら、大当たり。 週末のデートのとき、きっと精市が喜んでくれるとわかるからだった。 「は凄いね」 「・・え、今なんて?」 「ふふ。・・口元にクリームがついてるよ」 「あ、ありがとう」 「可愛いな、本当に」 「またそういうことを平気で・・で、何の話だっけ」 「が凄いなって話だよ」 「凄いって、わたしが?」 「ああ」 「・・わたし、何かした?」 「いつも俺を、色んなカフェへ連れて行ってくれるだろ?」 「それは精市でしょ。毎回いろんなお店に連れてってくれるじゃない」 「俺のは、人から聞いてるだけだよ」 「わたしだって、学校帰りに見つけてるだけだよ?」 「だから。それって、凄いことなんだよ、」 そうして見つけたカフェに誘うたび、精市は凄い、とわたしを絶賛した。 本当に凄いのは、ハーブを自分で育ててしまう精市をも唸らせるほどのハーブティーを、 完璧な手つきで淹れてくれるお店の人だと思うのだけれど。 それでも精市がわたしばかりを誉めるので、 いつだってわたしは、くすぐったいのとは少し違う、むずむずした気分になった。 「いい店を見つけられるっていうのは、ある意味で才能だからね」 「そうかなぁ?わたし、口コミとか雑誌とかも参考にしてるよ?」 「俺だったら、気がつかないで通り過ぎてしまうと思う」 「そんなことないよ!この辺はカフェ、いっぱいあるし」 「・・ふふ、謙遜するね、」 「だから、謙遜じゃないっていつも・・!」 「・・・あ、」 精市の手が、わたしの口元に伸びる。 今までに何度も触れたり、触れられたことのある手なのに、 いつまでたっても慣れないわたしの顔は、精市の指先が軽く触れただけで、 火でも点けたみたいにカッと熱を持つ。 「・・また、ついてたよ。クリーム」 「ちょ、と、言ってくれれば自分で・・!」 「あんまりが、美味しそうに食べてるから。いいだろ?」 「ああもう、また何の話だったか忘れちゃったじゃない・・!」 「はいつも謙遜してばかりだけど、凄いね、って話」 「だ、だから、凄くないし謙遜じゃないって」 「凄いよ。は俺の好み、よく知ってる」 そんなの、当然だ。誰よりも大好きな精市のことを、知らないわけがないのだ。 ただ、精市のことは大好きだけれど、 同じだけの植物の知識を入れておけるほど、わたしの頭は要領良くないから。 だから、せめて、これだけは。 精市が好きなハーブティーの名前くらいなら、わたしにだって覚えられるはずだから。 「・・凄くなんか、ないよ」 「同じ種類のハーブティーだって、店によって随分違うものだよ」 「それは、そうだけど・・」 「その中で、俺の好みにぴったりな店ばかり見つけるは、凄いよ」 ケーキの味もわからなくなるくらいに甘い笑顔を喰らい、返す言葉もなくなってしまう。 わたしが言葉に詰まったのを見ると、精市はすっかり調子に乗って、 カフェを出てもわたしの手をしっかりとつかまえて離してはくれなくなる。 そしてわたしは、次はどのカフェに行こう、どのカフェなら精市が喜んでくれるだろう、 なんてことしか考えられなくなるのだった。 * * * ある平日の放課後。わたしはいつものように、新しいカフェを探していた。 かわいいケーキを並べている新しいカフェがある、という話を聞いてやってきた通り。 殆ど初めて訪れる場所に慣れず、わたしはそのカフェを見つけることができないでいた。 すると、だんだん辺りは薄暗くなり、気付けば空に分厚い雲が広がっていた。 「困ったな、今日は傘、持ってないのに・・」 早く見つけなきゃ。そう思った次の瞬間、雨がものすごい勢いで落ちてきた。 こんな日に限って、鞄の中には図書室の本が3冊も入っている。 それらが濡れてしまっては厄介だと、わたしは慌てて屋根のあるお店を探した。 ところが運の悪いことに、辺りには軒下がないお店ばかりで、 店内に入らなければ雨宿りもできない状況。どうしよう。 わたしは、濡れないようにと抱きかかえた鞄を、もっと庇うようにして走った。 鞄を抱えていて前傾姿勢なのと、雨が強くて薄暗いのとで、周りのお店も見つけづらい。 そんな時、ぱ、と顔を上げたところに、真っ白な屋根のついた軒下を見つけた。 それがあまりに目を惹いたので、何のお店かもわからないまま、 わたしはその軒下めがけて全力で走った。 「はぁ、はぁ・・疲れた・・」 屋根の下に避難して、初めて気付く。 目の前には花畑みたいに、たくさんの花が咲き乱れていたからだ。 「そっか、ここ、お花屋さんだったんだ・・」 ところがどういうわけか、お店の人が見当たらない。 代わりにわたしに取り付いたのは、グリーン・ブルーのバラの花。 言葉通りに緑がかってはいるものの、確かにそれは青いバラだった。 「いらっしゃいませ。贈り物ですか?」 一体、どのくらい見とれていたのだろう。 すっかり夢中になっていたから、すぐ隣まで来ていた男性の声ではっとした。 ごくありふれた、ほんの挨拶の一声にさえ驚いたせいで、わたしは反射的に頭を下げた。 「あ、ええと、・・その、ごめんなさい、雨が降ってきたから」 「成る程、雨宿りですか」 「はい・・あの、ごめんなさい」 「謝ることはない。どうぞゆっくり、愛でてやってください」 優しい言葉にふ、と気が抜けて、顔を上げる。 初老の男性―花屋の主人が、言葉と同じに優しい笑みを湛えて立っていた。 いかにも花屋さん、という様子の鮮やかな緑色のエプロンには白い花の刺繍。 大きなポケットからは、黒くて古びた大きなハサミがのぞいていた。 彼はそれ以上わたしに話しかけることもなく、 お店の奥の方にちょこんと置いてある木彫りの椅子に腰掛け、ゆったりと目を閉じた。 さっき見当たらなかったのは、お昼寝中だったからなのかもしれない。 視線を、すばやく青いバラへと戻した。なんて、奇麗なのだろう。 青いバラというのは、かつて自然界には存在しなかった。 世界中の研究者が、青いバラを開発しようと躍起になった、と何かで読んだことがある。 青いバラの花言葉が『不可能』だったのには、そんな由縁があったからなのだ、とも。 しかしながら、幸か不幸か、技術というのは日進月歩。 ある時、ある国の研究者が、ついに青いバラをつくりだすことに成功したという。 その時から、青いバラの花言葉は『不可能』ではなくなった。 あたらしく与えられた花言葉は『奇跡』。 不可能だったはずのものが、うまれてきた。人はそれを奇跡と呼んだのだ。 わたしは散々眺め倒したそのバラを手に取り、花屋の主人に声をかけた。 つい今しがた、目を閉じたばかりだというのにごめんなさい、と言ったら、 彼はまた実に穏やかに、謝ることはない、と笑った。 そしてゆったりとした動きで空を指差して、通り雨でよかったですね、と付け加えた。 雲の裂け目から覗いた日の光が、眩しかった。 * * * 今年もやってきた、日差しがだんだん鋭くなってくる日。 大学を出て、晴れて結婚することになった精市とわたしの家にも、夏は訪れる。 わたしは何年経っても、この日には必ず、食卓の上の一輪挿しに、青いバラを生ける。 「ねえ、」 「・・精市?呼んだ?」 「ああ。ずっと前から、言おうと思っていたんだけど」 「え、何?なんだか意味深」 「花のことだよ。テーブルの、花瓶の」 「あ、あれね。どうかした?」 「いつも、換えてくれているんだね。しかも朝早く」 「そりゃ、生花だから」 「ありがとう」 「やだ、お礼なんて。わたしが好きでやってるのに」 「俺だって、花が好きだからね。・・それに、」 「ん?」 「今日のバラ、すごく奇麗だ。俺は好きだな」 お互いの誕生日でも、結婚記念日でもないこの日に、わたしが青いバラを生ける理由。 「気に入ってもらえたならよかった。わたしも、大好きなの」 今日は、精市が退院した日。 『もうテニスはできないだろう』と言われた、そんな難しい病気を克服して、帰ってきた日。 だから毎年、今日だけは、あの花屋で買う青いバラを生けると決めている。 奇跡の象徴を、一日中だって眺めていたい。 眺めて、今日という日も、精市が生きているんだって実感したい。 精市が気付いていなくても、気付かないふりをしていても、どっちだって構わない。 これは、ただの、ちょっとした、わたしの、自己満足なのだ。
記念日には
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